宗教の自由について
2022年7月26日
〇宗教の意味
今月、元首相暗殺事件があり、犯人が宗教団体への恨みを抱いていた
ことから宗教問題が日本で大きく取沙汰されています。
某宗教団体の献金トラブルは常識を逸したものであり、驚くばかりです。
何故、こんな献金をしてしまうのか?
人間とは心の弱い存在であるとしか言いようがありません。
また2世問題など宗教を取り巻く問題にも焦点が当たる事態となりました。
本日記では宗教問題について述べますが社会、政治の観点の意見を述べるつもりはありません。
この問題については、様々な専門家の方々のご意見に賛同するのみです。
ここでは、宗教のスピリチュアルな面のみを述べたいと思います。
宗教はいろんな側面があります。社会的役割、文化・芸術の側面、人々の心の支えの役割などです。
その中で私が注目しているのが、心の修養・霊的な修行 という側面です。
宗教の一つの面として、信者が自分の心を見つめる、そして宗教の行や祈り、儀礼を行うことで
霊的な面での修行をしているという(私にとって一番重要な)意味があります。
先ず、第一に心のトレーニングと言う面があります。
宗教を信仰していると、心のコントロールがうまくなります。(その人なりにですが)
一例を上げると我がままでトラブルばかりをしていた人が信仰をするようになって
周囲の人達の気持ちを考えるようになったりするなどです。
勿論、信仰をしていても未熟な人もいますが、その人なりに改善しているはずです。
次に霊的なトレーニングという面があります。
宗教の多くは行を行ってます。ほとんどは迷信みたいに見えますが、霊的、波動的には意味があります。
宗教の行をしている人は波動的に強化されていることが私にはわかります。
これらから、宗教は心や霊的な修行という意味があり、人生に地味ですが、よい影響を及ぼしている
と言えます。その影響はこの世の人生だけにとどまりません。
この世よりも死後の世界で、その効果を実感できるはずなのです。
信仰をしてきた方の死後の状態はそうでない人と違いが感じられます。
(もちろん、これもその人によってバラツキがありますが)
私の祖母は生前、信仰熱心でいろんな宗派を転々としながらも宗教の行を趣味のように行っていました。
周囲の人から「拝み屋」などと「役に立たないことに夢中になってる人」みたいに言われたこともあるようですが。
私は祖母が亡くなってから何度か接触をして祖母があの世でかなりの神通力を手にしていることを実感しています。
どんな宗教であれ、霊的な修行、または心の修行になっているのです。
そういう面から私は宗教は価値のあるものだと考えています。
宗教は人間の魂が求めているものだと思っています。
原始時代、人々は先祖を敬うことで先祖の霊が神となって子孫を守護すると信じていました。
ほとんどの民族が同様のことを信じていたと思います。日本でも脈々とそれがいろんな宗教で継承させています。
それはスピリチュアル的な面で本当にそうであると私は考えています。
人々が宗教を通して見えない世界と関わってきたのです。
〇自由な選択ができる時代
現代は一人一人が自由に自分に合った生き方をすることが可能であり、自由が尊重される社会です。
周囲の同調圧力に強制されるのではなく、自分の意志で選ぶことができる時代になったと思っています。
例を挙げるとスポーツも多様になりました。でも、昔はそうではなかったのです。
昔は「男子は野球をやる」というのが定番で野球をやらないと取り残されるみたいな状況がありました。
野球ができないと馬鹿にされたんです。私はプロ野球もあんまり興味がなかったのでよく知らなくて
馬鹿にされました。(競争や勝負事に興味が沸かないんですね。やはり変人でした)
バブルの頃になっても似たようなことがありました。
スキーが大ブームになりましたが、私は目が(光に)弱いことや足首を痛めていることから
スキーをやりませんでしたが会う人会う人に「スキー何でやらないの?」と言われてスキーをやらないことを
責められるような雰囲気でした。実際やってみても面白味を感じませんでしたので私はやりませんでした。
しかし、相変わらずスキーをやらない奴は変な奴だみたいに言われることが続きました。
私が「目や足に障害があるからできない」と言っても「それでもやった方がいい」とか言われた時には
「余計なお世話だ」とブチ切れそうになりました。昔はそういう同調圧力が強かったんです。
でも、今は違います。スポーツやレジャーも様々でその人が興味を感じるものを自由に選択するのが
当たり前です。各自が自分に合ったもの、興味を持つものを自由に選択できる時代なんです。
90年代にネットが普及し始めてから明らかに社会全体が変わったのです。TVが伝えるステレオタイプの
風潮に無理やり合わせる必要などなくなり、自分の考えは自分で決めることが自由にできる時代になったのです。
ならば、宗教もそうあるべきです。
ここでは私がお勧めする宗教の選択肢について述べたいと思います。
宗教も周囲の圧力などに屈することなく自由に選んで欲しいと思ってます。
ここで宗教団体を止めるように皆さんに勧めてるわけではありません。自由な選択肢があるということ、
やり直す選択肢もあること、そして一人でも信仰はできるということを言いたいだけです。
宗教のことで悩んでいる方、辞めたが未練がある方、押し付けられた教えや恐怖の教えに苦しんでる方、
私のように神秘的、呪術的な傾向が強いため、普通の宗教は合わないという方、
神秘的なことに関心はあるが、団体活動や人間関係のしがらみは好きではないという方、自由になりたい方、
などにも向けて書いています。もっと自由に楽に考えて欲しいと思ってます。
〇閉鎖的な村から脱出する自由
宗教というと組織に属して信仰の行為やら儀礼などをやるというイメージが強いと思います。
どこかの宗教団体に属すというのが定番だと思います。団体に属することで同じような考え方の人達と
交流することができ、友達や知り合いが出来たりします。また、ボランティア活動みたいなことを
することで社会に奉仕するという喜びがあったりします。
そこで団体活動をすることに生き甲斐を感じている人達もいます。
集団や活動が好きで生き生きしてる方もいます。宗教でなくても団体活動なら何でもいいのでは?
と思えるような人もいます。そういう人達はそこで楽しく活動をすれば良いのですが、
中には2世信者や人間関係のしがらみから参加させられている人など
意に反して団体活動をせざるを得ない人もいます。また、自分から希望して入信してみたが
自分の考えや理想とは異なっていると感じて悩みを抱えている人もいます。
宗教団体ではよくありがちなのですが、その世界が閉鎖的な村のようになっていて自由が束縛されて
しかも、そこを抜け出すことが人間関係のしがらみやら心理的な面で難しい場合もあります。
私が知っている異常な実例を紹介します。
ある宗教団体のある地域のコミュニティでのことです。
そこではコミュニティの長老候補の男性が力をもっていました。
A氏としましょう。A氏は50近い中年男性でそこでは信頼されている人なのですが、未だ独身でした。
組織ではA氏を誰かと結婚させて家庭を持たせようとしていました。
家庭を持つことが長老になるには必須と考えられていたからです。
ところが、その男性は無類の面食いで、そのコミュニティは女性の方が圧倒的に多いにも関わらず、
そのA氏が好意を抱いた女性はほとんどいなかったらしいのです。
お見合い話も「若くて美人じゃなきゃダメ」と全て断る状況でした。
だから、伴侶が見つからないわけです。これにはみんなが困っていたようです。
そこへ、B子という若い信者が移ってきたのです。
B子は目立つほどの美人だったのでAは待ってましたとばかりに狙いを定めたのです。
しかし、B子には既に彼氏がいたので振られてしまったわけです。
それでAは諦めるのが筋ですが、諦めなかったのです。びっくりしたのですが、
何をしたかというと組織をあげて「彼氏と別れてAと結婚するようにB子を説得する」
と指示を出したのです。神様の御意思であるかのように。
更に驚くことに、コミュニティの女性達までが団結して、B子に圧力をかけたのです。
その組織にとってはB子の人生よりも組織の都合の方が重要なことだったのです。
世間の常識から言えばAこそが我がまま言ってるじゃないか?と思うはずですが、
そこの村では立場が上の人の考えは神様の意志ということなのです。
やってることは、集団イジメ、組織的セクハラ でしかありません。
こんなバカげたことが起きたのです。
世間ではこんなことはセクハラですが、その組織内ではそれを咎める人は誰もいません。
何にも悪いことをしてないB子が、責められることになってしまいました。
「自分の都合よりも神様の都合を優先しなさい」と彼女が自分勝手だとされたのです。
B子は、こんな卑怯なエロオヤジのために彼氏と別れを決断して、
人生を捧げるべきなのでしょうか? あきらかに異常ですがその村では当たり前なのです。
こんな仕打を受けたのなら、さっさとそこを止めてしまえばいいのにと思うでしょう。
しかし、閉鎖的な村で家族や友人達の人間関係を考えると離れることは勇気が要ることなのです。
もっとも大きな問題は人間関係よりも本人の信仰心です。
そこの長老の意志に背くことや、そこを離れるということは信じている神仏を裏切ることになる。
あるいは、信仰を捨てることになるかもしれないのです。それを考えると
背くことや離れることができない人がいるのです。
人間関係を切り捨てることは決断さえすればできることですが、神仏を裏切ることは簡単にはできないのです。
もし、神仏を裏切ってしまったら、不幸に落とされるかもしれない。永遠の地獄行きかもしれない。
心の支えを失ってしまうかもしれない。何もかもが無になってしまうかもしれない。
信じている人にとって教団を止めることは全てを失うことに感じられてしまうのです。
他人は「嫌なら止めればいいじゃん」と簡単に言うけども、当人は簡単に切り替えできないのです。
「宗教を取るか?自由を取るか? もし自由を取った場合には
安らぎも幸せも来世も、夢も希望も何もかも全て失い奈落の底に落ちることになる」
「ならば、我慢して宗教を取ろう。いいなりにしよう。神様の為に、永遠の天国のために」
という心情になってしまうのです。
この恐れが最も深刻だと私は考えています。
当人がそう思ってる限り、周囲の人達はどうすることもできないのです。
そんな悩みを持つ方へ、私は先ほどのスポーツの例で説明したように
「信仰は自由に選んでいいんだよ」
「スキーをやらなければならないと思う必要はない。スキーが好きな人はやればいいし、
やりたくない人は、他のスポーツを選べばよい それと同じで
周囲の人に何と言われようと嫌なら止めて、自分が好きな信仰を選べばよい」
と言いたいです。
宗教団体は信者をつなぎとめるためにありとあらゆる屁理屈をもっともらしく説いています。
それらは商品のCMみたいなものだと思ってください。CMを真に受けて高額な商品を買う
必要はないのと同様に、宗教団体の言う屁理屈に従う必要はありません。
信じた宗教団体を止めること
=神仏(または崇拝する対象)を怒らせること
=神仏や見えない存在を全て否定すること
=誓いを破る大罪を犯すこと
=心の支えも何もかも全てを失うこと
=今まで努力してきたことが無駄になること
と考える必要はありません。昔は男女が結婚するとき「永遠の愛」を誓い、それを破って
離婚することは恥であるみたいに考えられましたが、今では離婚する人は大勢います。
永遠の愛を維持できればそれに越したことないけど、人間だからうまく行かないこともある。
結婚する前には分からなかった事実が判明する事もあるだろうし、人間は変化するものである。
いろんな事情があるんだから、離婚もしかたないことである。
またやり直せばいい という考え方になってると思います。
宗教も同様です。止めることを「誓いを破った罪、恥」と考える必要はありません。
今まで努力してきたことがリセットされるわけでもありません。
今までの努力を貴重なキャリアと考えて、次のステップに生かせばいいんです。
〇どこにも独特のカラーがある
私の知り合いの方で某宗教団体で熱心に信仰されている方がいます。
その方は大変真面目な方で親切にしてもらっています。一度勧誘されたのですが、
私ははっきりと「入信はできない」と伝えましたので以降勧誘は一切されていません。
ただ、いろいろとお世話になっているのと、私のことを祈ってくださってるように
感じていますので、興味はあるとは伝えました。
すると「信徒にならなくてもお札を買うことはできる」とのことでしたので私は
その教団の本部に行ってお札を買いに行こうとしました。
ところが、そのお札を目にしたときに「これは合わない」と感じてしまいました。
エネルギーが合わないということです。悪くはないのですが、独特の世界観の
エネルギーなんです。その教団のカラーがパワーにはっきり出ているわけです。
「申し訳ないけど、部屋にお札を飾ることはできない」と断念しました。
どこの宗教にもそれぞれカラーがあるんです。どこも一長一短があります。
完璧ではないんです。
どこも能書きやCMの文句みたいに
「自分の所だけが唯一絶対」
「自分の教団の神(など)が最高」
「よそは全て間違っているあるいは低級」
「自分の教団が世界にとって唯一の救い」
などと主張するのですが、それは外出時のオシャレや化粧みたいなものだと
思ってください。どこでもそんなことを言ってるのです。真に受ける言葉ではないです。
私の個人的感想ですが、唯一絶対あるいは完璧な宗教など一つも見たことがありません。
ついでに言っておきますが、イキガミ様(この世に肉体を持った神様)なんて見たこともありません。
それぞれカラーが異なるのですから、自分にあったカラーを選べばよいのです。
カラーが合わないと思ったら止めることも自由な権利です。
もし、止めたいと思った時に「止めたら地獄に落ちる」などと脅したのなら、
それはDV夫が「俺と別れたら殺してやる」と言って脅してるのと同じです。
〇様々な選択肢がある
ここから私の神秘的な面の持論を紹介したいと思います。
1.捨てる神あれば拾う神あり
実は神仏あるいは見えない世界の存在はいろんな存在がいます。この世よりも多様であると言えます。
ある神様に捨てられても、別な神様が拾ってくれたりします。
この私が正にそうです。過去にいくつかの神様に唾を吐いたこともあります。
神聖なものを踏みつけてゴミに出したこともあります。
私が信仰している神様は私のことを拾ってくださった神様あるいは、私が個人的に
恩義や好意を抱いている神様です。
あなたの生き方や個性を否定するような神仏など信じなくてよいのです。
あなたを認めてくれる神仏を信じればよいのです。必ずそういう神様がいます。
もし、見つからなければあなたの潜在意識を信仰してください。
2.見えない世界の実相
昔、ジャングルの未開の部族は飛行機を神様として崇拝していたという話があります。
「人間が作った物を神様と間違えるなんて、信仰なんてその程度のもの」
と嘲笑った人もいると思います。
「信仰なんて何の意味もないことだという証拠である」と言う人もいるでしょう。
また、宗教界では「我こそが本物の神仏を祭っている」
「我らの教えが一番理に適った正しい教えである」などの論争が盛んにされています。
どの宗教も美辞麗句で崇高さを主張してます。文学表現のコンペみたいです。
一体どの教えが正しい教えなのでしょうか?一番崇高な宗教でしょうか?
私はそういう考えではないです。
どんな信仰もジャングルの部族が飛行機を拝んだのと似たようなものだと思っています。
いくら崇高に見える宗教も元は飛行機を神と間違えた程度のことから発祥していると思います。
「本物なんてない」と思ってます。ならば「全て意味がないのか?」と言うとそんなことは
ないんです。前述のようにどんな信仰であれ意味はあるんです。
私が見えない世界を感じ取ってきてわかったことは、見えない世界の存在達は
人間に対して「見えない世界の仕組みを理解すること」を期待も要求もしてないということです。
むしろ「人間には見えない世界のことは理解できないよ」と言う感じなのです。
例え、人間がどんな信仰をしていても、それに応じた存在がサポートしてくれているのです。
飛行機を神様と勘違いして崇拝した人達にはそれに応じた存在が神様のように
サポートしてくれるでしょう。太陽、雷、伝説、UFOでも何でも、神様のように
信じれば、それに応じた存在が現れてくれます。
信じる人達の考え方、カラーに合った存在がそこにマッチングしてくれるわけです。
見えない世界は私が感じたところではほとんど善意に満ちた霊的存在が圧倒的に多く
この世を様々な面でサポートしてくれています。
様々な人の生き方や願望にマッチングした存在がサポートしてくれているのです。
だから、信仰もマッチングによって霊的存在が降臨するわけなのです。
その信仰がどれだけ優れた教えか?本物の系統であるか?などに関係なく、
マッチングによって霊験が現れるわけです。
信仰の志が高尚であればそれに応じた高尚な存在がマッチングし、低俗な志であれば
低俗な存在がマッチングするわけです。
もう一つ誤解されていることがあります。
世間では見えない世界と言うと「怖い話」ばかりが強調されてしまっており、そういう
怖い存在もいるのですが、そんな存在ばかりではありません。
むしろ善良な存在の方が多いと考えてください。
善良な志で信仰をしている限り、善良な存在と繋がるのです。
そう考えると特定の宗教にこだわる必要はない。
特定の教えに縛られる必要もない。
見えない世界を恐れる必要もない。
ということがお分かりいただけると思います。
3.お一人様信仰
別な日記でお一人様信仰について述べました。私がそうなんです。
一人で信仰しているんです。
何かの組織には所属していません。そういう選択肢もあるわけです。
「神秘のお部屋」の読者もそういう方が多いと思います。
神秘のお部屋の神様も祭っておりネットで参拝することも可能です。
当サイトのテクを信仰とすることも可能です。
入会も登録もなし、退会自由ですから。
組織で信仰するのは嫌だという方、宗教は個人の心の中だけの物だと考える方は
お一人様信仰をすることも選択肢に加えてみてください。
昔、街頭で聖書を頂いたことがあります。
聖書を読むことを信仰とすることも可能です。
一人でもいいし、友達やサークルみたいな信仰でもよいわけです。
ネット時代になってもっと多くの信仰の形が登場してきていると思います。
潜在意識活用もその一つと分類しています。
潜在意識を神仏のように崇拝しているのですから一種の信仰と捉えることができます。
一人でもいいし、ネットのコミュニティでそれを信仰しても構わないわけです。
他にも様々なタイプの信仰があります。
人生哲学の本を読んでそれを実践することが信仰であるという人もいるでしょう。
ヨガや気功を行うことが信仰だというタイプの方もいると思います。
占いや魔術を行うことが好きなタイプもいます。
4.霊やあの世を恐れなくてよい
信仰というより霊感商法などでよく問題とされるのが霊障ですね。
霊にとり憑かれている、先祖が苦しんでいる などの話です。
霊を信じている人はこれを言われると強い恐怖に駆られてしまいます。
また「今のままでは死後苦しむことになる」と言われたらこれも恐怖に駆られてしまいます。
TVやネット情報では「怖い話」が盛んに紹介されているため、あの世や死後の世界は
怖い世界、大勢の霊が苦しんでいるという印象を受けてしまってる人が多いです。
何か悩み事があると霊が原因では?と思ってしまいますし、自分が死んだらどうなるのか?とか
不安になるものです。
でも、そういう漠然とした理由で宗教団体に入ったり、能力があるという人にお金を払うのは
あまり望ましくないですね。勿論個人の自由ですが。
私の意見としてメディアやネットに氾濫している霊の情報はエンタメだと思って欲しいです。
ワザと怖く作ってあります。「写っちゃった映像」の95%くらいはフェイクです。
私は見て分かってしまうので楽しめません(笑)
死後の世界についても、あの世を感じ取ってきた私の見解を申しますと
極悪人やテロリストでもない一般の人はあの世で安らかに過ごせます。
供養されない限り霊が苦しみ続けるなどということはありません。
前述したようにあの世の霊のほとんどは善霊になって現世をサポートしています。
迷っている霊に対しても常に救いの手が差し伸べられています。
もちろん供養は意味があります。
私は両親の波動をチェックしてますが、確かに供養してもらうと波動が変わるんです。
安定感が出てくるんです。でも、供養がなくてもいずれ霊は救われます。
そして霊障についてですが、確かにそれはあります。私自身が経験してますので。
緊急の場合には専門家の対処が必要な場合もあるとは思いますが、緊急でもないのに
霊のお祓いや供養をする必要はないです。
これもTVや映画の影響だと思いますが、霊を除去するには能力者がエクソシストみたいな
儀式で対決する必要があると思いこんでる人もいます。しかし、それは緊急時のみの対応です。
むしろ、霊は簡単に除去などできません。中途半端に行うと返って危険です。
緊急でもない人は例え霊が憑いていたとしても、霊能者やそれに関係した団体に行って
除霊を繰り返す必要などありません。そもそも、お金を出して仰々しく儀式を行えば除去できる
というものでもありません。
除霊を勧める人達の言うことは、私には恐怖を煽るCMのように聞こえてしまいます。
霊障の解決は見えない世界のサポートにゆだねてゆっくりと時間を掛けて、霊を説得してもらい
憑いてる霊の恨みなどを少しづつ取り去っていくという方法が安全で確実です。
ほとんどの場合、この方法で見えない世界の存在が行っており、知らない内に解決しています。
献金やお布施をしようがしまいが、善良な人である限り、見えない世界の存在が人知れずそれを行ってます。
この世の人は見えない世界のことをあれこれ推察してお金を出してお祓いなどせずとも、
日々の心の信仰をしていればそれでよいと考えています。
関連ページ:信仰について 死後の世界について