信仰について
2018年9月1日
身内から「何か宗教をやっているのか?」と聞かれることがあります。
いつも宗教っぽいことをやっているから当然と言えば当然です。
浮気のようにコソコソ隠れて何かを信仰しているんじゃないの?という疑いをもたれてるようです。
護符みたいなものを持っていたり、ヒーリングをしたりしているからですね。
私としては宗教については一般の人と考え方が違うし、やってることも特殊なので
答えられないというのが実態です。私にとって宗教は団体に属することではありませんし、
誰かに奉仕することではありません、また、一つの神様なり仏様だけを信じなければいけない
という考え方もありませんので、浮気しているという考え方もありません。
そもそも、私は一人で信仰をしているのです。いわゆる「おひとり様」で信仰をしていて、
それに賛同してくださっている多くの方が居るだけなんです。
護符やヒーリングも自分で開発したものなのです。
でも、そんなことを言っても信じてもらえそうもありません。
「HPを見せればよいでは?」と思うかもしれませんが、かつてHPを教えたら
その後、一切音信不通になってしまった友人が何人かいます。
きっと私のHPを見て「何かの宗教団体の下部組織をやっている」と思ったのでしょう。
ですから、一般の人には教えたくないのです。隠すつもりも何もやましいこともないんですが。
そんな、こんなで最近、信仰について考えたことがありますので、ここで日記として
記載します。なお、信仰について他者を批判してるわけではありませんし、正しい信仰の
在り方についての主張をしてるわけでもありません。信仰は個人の自由であり、様々なものが
あって当然です。他者の信仰は尊重します。
ここでは異端かつ特殊な感性の持ち主である私が考えたちょっと変わった視点を列記してみます。
もしかしたら、何か参考になることがあるかもしれません。
1.カリスマを信じたがるのが人間
私は昔から超常現象に興味を持っていたのでファンタジーが好きな人、あるいは
ロマンチストだと思われがちですが、全く違います。ファンタジーは好きではありません。
またおよそロマンと名のつくものに興味はありません。何しろ、アイドルに夢中になった
ことさえありません。「好きなタレントは?」と聞かれることがあるので一応答えられる
ように誰かをマークしておく程度です。(ほんとうはいないんです)
「アイドルに夢中になって追いかけても振り向いてくれるわけではないので無駄。
振り向いてくれる人を追いかけた方がずっといいじゃん」
という現実志向なのです。
アイドル以外にも憧れた人などいません。子供のころ、王貞治さん(現役時代ホームラン王でした)
に憧れたことはありますが、それでもファンクラブに入ったわけでもなく、巨人のファンでも
ありませんでした。
一時、エドガーケイシーに夢中になったことはありますが、それでも「ここは間違っている」
「ここはおかしい」などと夢中になりながらも批判していたので友人からは「お前はケイシーを信じてないのか?」
などとあきれられたことがあります。でも、私は矛盾しているとは思っていませんでした。
何故なら、私は100%本物だとか100%真実などというものは存在しないと思っているし、
完璧な人などいないと思っているからです。
どんなに憧れている人の言うことでも何割かは間違っていて当然と考えているのです。
また、ある映画監督のことを能力が高いと尊敬していますが、
その人の作品はあまり評価してません。嫌いで見たくもありません。
能力・人格を認めて尊敬はしているが、作品は評価しないし嫌いです。つまり、能力、人格、作品
それぞれ別々に評価しているのですが、他の人によると変だと感じるらしいです。
全部評価して崇拝するか、全部評価しないでけなすか 白黒はっきりさせるべきだというのです。
しかし、私は何でも別々に評価します。能力の高い人が人格・業績が優れてるとは限りませんし、
その逆もそうです。その人を尊敬することとその人の業績を評価することは別です。
何で全部評価する「白」と全部嫌う「黒」に振り分ける必要があるのでしょうか?
私はお釈迦様でも絶対正しいとも思ってませんし、イエス様は人間に過ぎないと思っています。
例え、お釈迦様やイエス様が目の前に現れて「いますぐ、全てを投げ出してついてきなさい」
と言っても「私はあなたにそこまでする恩義はありませんのでお断りします」と答えるでしょう。
そういうロマンの無い人間なわけです。そういう私から見ると普通の人達が、誰かのことを
「本物だ」「絶対だ」「神様だ」と心酔しているのを見て不思議に感じてしまうのです。
私はある先生のセミナーにたまに行くことがあります。何でも知っていて質問すれば
答えてくれる人なので尊敬しています。会場に行くと追っかけのように毎回来ているファンみたい
な人がいたりします。その人たちはその先生が言うことは100%信じるでしょう。
でも、私はどんなに尊敬する先生が言おうと自分が納得しなければ信じないし、元々30%くらいは
間違いや嘘があるだろう(そうでないと仕事はできない)と考えています。
人間は絶対の真実というのが大好きです。聖者や歴史上の有名人、あるいはカリスマ的な人を
信じてそれにすがることが好きな生き物です。絶対のものや最高のものにすがることで安心できるから
かもしれません。また、憧れのものに近づくことで自分の価値も高まると感じるのかもしれません。
皆さん、誰でも当然だと思うかもしれませんが超現実派?の私にはとても奇妙に見えるのです。
有名人、ブランドに振り回されてしまうのも人の常だと思いますが、私には滑稽に見えることがあります。
たとえば、私の両親は一流大学に憧れてましたが、私は一流大学に憧れたことはたぶん無いと思います。
昔から理想が現実的なので先生から驚かれるタイプですが、私にはなんで皆が実力以上の所に執着して
悩んでるのか?不思議でしかたありません。
学業という手段に過ぎないことが人生の目的みたいになってしまい、しかも高い、低い、勝った負けた
という下衆なことにこだわっていることが奇妙で愚かにしか見えませんでした。
(今は違うと思いますが昔は酷かったです。国民全体がどれだけ高い大学に行けるかを競って
いたような時代がありました。今にしてみると北朝鮮と同じく異様な時代でした)
これと同様に人は絶対に正しい人、絶対・最高の宝や教えに憧れて振り回されてしまうように見えます。
今では、人間はそのように出来ているのだとはっきり結論づけて考えています。
人間はロマン、ブランド、偉人、聖人に憧れて振り回されるように出来てる生き物なのだということです。
憧れやロマンは人が生きるために必要な栄養源なのかもしれませんのでそれは良いと思いますが、
逆にそれが弱さでもあります。それによって苦しめられることもあるわけです。
それが個人の心の中のロマンチックな喜びに関することならば問題はないのですが、世の中には
そういう人達の心理を利用しているビジネスが多数存在していて、中には悪辣と感じられるものもあります。
残念なことですが。信仰はとくにその温床だと言えるでしょう。
ロマンはいいことですが、ロマンに惑わされている時に、ちょっとでも冷静になることも必要です。
よけいなお世話なのですが、人間のロマン志向はちょっと注意した方がよいと警告したくなります。
ロマンは宝くじと同じです。当選するかもとわくわくすることは楽しいことであり、夢でもありますが、
当選しなかったことを悔やんでしまっては損なだけです。
2.言葉の定義の問題じゃないの?
私が宗教やスピリチュアルで発見したことの重要なポイントの一つは、どこでも自分たちが
信仰している神仏が最高の存在であると主張したがることです。当然と言えば当然です。
どこの自動車ディーラーも「我社の車が最高です」と言うのと同じですね。
ですが、宗教となると「自分の神様が最高」だけでなく「他の神様を信じると不幸になる」と
まで言う傾向があります。ある宗教によると本物のその神を信じたら永遠の楽園が約束されて
それ以外の神を信じたり、無神論者は無になるか?永遠の地獄に落ちるというのです。
神様の選択によって永遠の違いが出るわけです。
「だったら本物の神様を選びたい」と思うのは当然ですが、その本物の神様というのがいくつも
あってどれが本当かわかりません。「どうしたらいいの・・」と悩んでると牧師さんみたいな賢明な人が
答えを示してくれるかもしれません。
「それはね。本物の神様はこの世界を創造された唯一の方ですよ。他の神様はその方が
創った被創造物にすぎません。被創造物ではない、唯一の創造主を信じればいいのです」
と。
するともやもやが晴れます。
「そうだ。この世界を創った唯一の神を信じればいいんだ」と一時気持ちが晴れます。
でも、調べると創造主はヤハウェだったりゼウスだったり、いろいろ呼ばれています。
いろんなところが同じことを主張していて「偽物」も現れることがあるというのです。
一体どこが本物なの? 悪魔が666の印をつけて出現するなら、本物の神様は555でも印をつけて欲しい
と思うでしょう。でももし、そうだったらまたどこも555の看板を掲げるでしょう。
「もうわけが分からない、一神教の宗教を信じればいいんだ」と妥協することにしましょう。
一般の方はそれで決着するのでしょうけど、私は更に踏み込んで考えてしまいます。
「そもそも、唯一の創造主を信じるってどういうこと?
単に、自分の信じている神様が創造主だって言葉で定義して崇拝してるだけでしょ?
言葉で「この宇宙で最高の神様」と定義された神様を信じれば、最高の神様を
信じたことになるの?」
と疑問が湧いてきてしまいます。そもそも宇宙を創った創造主なんているの?
いるならその創造主は誰が創ったの?など堂々巡りの疑問が湧いてきてしまいます。
そこで登場するのは仏教学者です。「宇宙は永遠の昔から存在していて、普遍の法が
あるのみです。仏教は法を信じてるのであって神を信じてるのではありません。
神様を巡る争いなんて超えています」などと言いだすわけです。
なんか、こっちの方が合理的で知的に感じたります。
でも、私にはそれも疑いが出てきてしまいます。
単に 神を法、または仏という言葉に置き換えただけではないのでしょうか?
昔、ある仏教信者から仏教の理論性が優れていることを説教されたことがあります。
どれだけ理論的に優れているか? 難しいことをどれだけ理解しているか?
を競っているかのように見えました。
でも、多くの人には理解できない難しい理屈を理解したら、悟ったことになるの?
単なる知的娯楽や知的ゲームの世界じゃないの? 知的ゲームで勝つことと悟りは違うんじゃないの?
実践派の私には宗教の議論の多くが机上で言葉や概念の定義や表現を議論してるだけに感じられてしまいます。
学術的な言葉や表現を使ったり、偉人や有名人の権威を添えて、いかに深遠な教えであるかのように
表現する文学表現のコンペのようです。
「そんな言葉の定義や表現などよりも、ご利益や効果があるかどうか?
多くの人の心の救いになるかどうかが大事なのでは?」
と思うのですが皆さん「教えが崇高で次元が高い物が本物であり、ご利益がある」
みたいな論法をしてるのです。実践派からするとハリボテに騙される人々に見えます。
ハリボテの見た目の出来栄えでご利益や救いが決まるというわけです。
こういう宗教の混乱ぶりが話題になると新興宗教は「私の宗教は宗教ではありません。
宗教を超越した高次元の真理です」などと主張したります。そこの信者は「私が信じてるのは宗教
ではないので宗教問題とは関係ありません」などと涼しい顔して言ったりします。
これこそ言葉の定義にとらわれた例とも思います。
近年ではスピリチュアルはそういった宗教の争いを超えている新しい概念を提唱したりしてます。
従来の神をより寛容的な存在であるとしたり、全てが一つである「ワンネス」を主張していたります。
現代的で良いと思うのですが、中には「ワンネス」に反するものを「時代遅れ」「間違っている」
と断罪するような人がいます。
それはそれで従来の「神仏」の定義が「ワンネス」「全て」に置き換わっただけではないでしょうか?
3.宗教の価値は心の救いでは?
私は皆さんご存じのように実践的な信仰をしています。そして絶えず、神仏や
見えない世界に祈願をしたりしてます。呪術的な信仰なわけです。
思想や教えというものはあるような無いような感じで重要ではないです。
宗教学的に言うとアニミズムとか原始宗教ということになると思います。
そうなると何だか時代遅れ、原始的というイメージに聞こえます。
でも、私はそうは思っていません。
宗教学では
「宗教とは何でも拝むアニミズムから次第に高度に進化していき、最後は一神教になっていく」
みたいな考え方をしますが、それは西洋人の価値観です。
むしろ、私は原始人の宗教こそが最も優れていると考えています。
その理由は、宗教や信仰を理論や理屈で判断するのではなく、人々の救いという観点で
見ているからなのです。
原始人の信仰は部族によって異なるとは思いますが、ほとんどは先祖や精霊を崇拝し、
日々、祈願し、自分達が死んだら、先祖となってまた子孫を守るという考え方だと思います。
それが自然です。
そこには死後の不安もありません、恐怖もありません。部族としての一体感もあります。
実に心安らかな信仰ではありませんか?
ところが、キリスト教、イスラム教、仏教など世界宗教が広まり、それが
各部族や民族の信仰を駆逐していきます。
その教えは政治的思惑、庶民には理解できない理屈によって脚色されたものです。
死後、永遠の地獄に堕ちるとか、苦しみの輪廻を延々と繰り返すとか
恐怖に満ちています。救われるには難しい理屈を理解したり、戒律を守らねばなりません。
日本に入ってきた仏教では出家して悟りを得る以外に救われる道はなく庶民は永遠に苦しみを
繰り返すという教えでした。(その後、救いをもたらす宗派が多数誕生してますが)
そういう進化した(?)宗教よりも、原始宗教の方がよっぽど単純明快であり、
人の心の救いになっているように思いませんか?
もちろん、現代ではどの宗教も人権や心の問題に取り組んで改革をしてきており、多くの人の
心の支えになっていると思いますので批判するつもりはありません。
私が言いたいのは原始人が何万年も信仰してきた原始宗教をレベルが低いとは言わないで欲しい
ということです。私はそういう実践的・呪術的な信仰を最も評価して推奨しています。
そういう人もいるということです。
4.来世のこと言われたら恐怖だよね?
人間は不安で孤独なものです。何かを信じなければ生きていけません。
もし、科学者が言うように全てが合理的な法則に基づいていて科学がほとんどのことを
解明していたとすると、人間には運命も人生の奇跡もなく、死んだら全てが無に帰すことに
なります。「何故、自分は才能も、良い資質もなく貧乏な家に生まれたのか?
何故、自分は病気で苦しむのか? 死んだら終わりなのか?」
などの疑問に対する答えは無い事になります。
特に永遠の生命や来世に関することは多くの人の関心事です。
宗教以外でその答えを求める試みがありました。
昔、アニメで永遠の命が得られるロボット勢力と戦う戦士がつぶやきます。
「人間はロボットと違って命は限られているが、子供を作り、育てる。それが永遠の命なのだ」
一見すると感動的な言葉であり、多くの若者に答えを提示しているように見えます。
でも今は結婚しない(できない)人が大勢いますのでこんな言葉では落ち込みますよね?
「結婚できない人は死んで無に帰す」と言ってるように聞こえます。
クローン人間も話題になりました。自分のクローンを作って延命するというアイデアが
SFなどでもてはやされました。でも、よく考えてみてください。自分のクローンを作って
自分の記憶を移植することができたとしても、それは双子の弟と同じです。
他人には同じに見えるかもしれませんが、コピーであって自分ではありません。
自分が延命するわけではないです。自分の記憶をサーバに移し替えて延命させる話も
ありますが、それも自分そっくりのロボットサービスができるだけで自分が延命するわけではないです。
やはり、科学では解決できません。
人間は人生に意味がないなんては寂しすぎますので、神仏やら来世やら運勢などを信じるのです。
人生の意味や目的、そして奇跡や未来の幸せを探ろうとするのです。
宗教やスピリチュアルを人々が求めるのは当然と言えます。
でも、信仰には疑いが出てしまうことがあると思います。予言や来世の約束などを信じて
人生設計をしていたら。もし疑いを抱いてしまった時に恐怖に近いものを感じるかもしれません。
私自身は生まれながらに神仏や霊や様々なエネルギーを感じる体質なので
疑う必要がありません。私が構築してきた信仰は感覚によって築き上げていきたものですので
何かを信じているわけではないのです。そういう意味では疑いというのはありません。
「もしかしたら自分の感覚は妄想なのでは?」と思うことはありましたが、ネットで
皆さんと実験をすることで妄想ではないと確信することができました。
多くの人はそういうわけにはいかないので私がHPで代弁できたらよいと思っています。
私ははっきり言いたいんです。神仏も霊もあの世も全てあるんですよと。
しかも、荒唐無稽なこともなく、社会の俗習とも大きく乖離することもないんです。恐怖もありません。
しかも、見えない世界は各自の望みに合わせて自ら構築できる便利な世界であると。
さまざまな方法でそれを証明していきたいです。同じように感じる方々にも証言してもらっています。
私にとって神仏との付き合いは人間関係と同じです。いろんな人が居ていろんな縁が
あったりするのと同じです。ある神様とは親しくなるがある神様には嫌われたリと
いったことがあるわけです。すべての人に好かれることができないのと同じで
すべての神仏に好かれることもできないわけです。
だから、どこかの神様にこだわることはないし、嫌われてもいいわけです。
「捨てる神あれば、拾う神あり」です。
神から捨てられても、あなたのことを愛してくださる別な神がいます。
もし、独裁国家のように唯一の神様が好き勝手に人を裁いているならとっくの昔に
革命が起きて独裁者は倒されているはずです。そう思いませんか?
私なら、向こうの世界でそうしますよ。器の小さい独裁者など倒せと運動起こしますよ。
特定の神仏に従った者だけが死後幸福に過ごしているとか、逆らったことで
あの世で苦しんでいたり、後悔していたりしてるなど私は霊感で感じたことはありません。
霊がそういうメッセージや訴えをしてきたのを感じたこともありません。
私には信仰の種類と来世の境遇などが関係あるようには思えないのですが・・
宗教の説く来世の約束は言葉の定義を議論してる人達の言葉の創作みたいに感じられてしまいます。
宗教を巡る争いは世界各地で今でも起きてますし、日本でも新興宗教を巡って
家族や親せき、恋人同士で対立やトラブルが起きたりしています。
私に言わせれば、宗教の選択を巡る争い、「自分の宗教が正しい」という主張の対立は
宗教を所有している人間の都合でしかありません。
何で他人の都合のために家族や恋人と絆を傷つけなければならないのでしょうか?
もし、それで神仏から嫌われたなら、別な神仏に切り替えればよいです。
私は過去に何度か神仏を切り捨ててます。(というか神仏から嫌われてます)
こんな罰当たりな私でも愛してくださる神様がいらっしゃいました。
「捨てる神あれば、拾う神あり」です。
5.疑いとの闘いって辛いよね?
私は見えない世界を感覚と実験で確信しており、疑いはありません。
そういう意味では恵まれているわけです。疑いがないので一人で自由に信仰をすることが
できるわけです。組織も仲間も必要ないわけです。
もし、一人で聖書などの本に書いてることを信じているとしたら、本当だろうか? 分からない?
と疑問にさいなまれることになるでしょう。誰かと一緒に信じないとやっていけないでしょう。
しかも、教祖が神様であるとか、死後、肉体が復活するとか、
とても信じられないと思うこともあるでしょう。
本に書いてあることを信じる信仰では常に疑いとの闘いがあるのではないでしょうか?
その解決策として皆で集まって同じことを信じるという方法があるのです。
これ不思議なことなんですよ。
どんなに荒唐無稽なこともみんなで当たり前のように毎日話していれば
信じることができてしまうんです。組織というのはそういう力があるんです。
そして荒唐無稽で過激であればあるほど結束力が高まります。
ですから宗教には組織が重要となるのですが、組織は維持が大変です。
宗教法人に登録された団体のほとんどが数年で消滅してしまうそうです。
理由は簡単です。最初100人で宗教を作っても一人去り、また一人去り・・と人は減っていきます。
組織を維持するには布教活動をして新しい信者を獲得しなければなりませんが、
それがナンパと同じくらい大変なんです。声を掛けても掛けても無視される・・感じです。
ですから、宗教団体の活動の多くが布教活動中心になってしまい、勧誘のノルマを
煽るようになってしまっているわけです。カルトになりやすいのはその為です。
そういう活動が好きなら別ですが、多くの人はノルマに悩まされることになるでしょう。
私の正直な感想として
「団体を作った人間の都合のためにノルマに悩むなどしたくない」
「布教活動して欲しければ時給払って欲しい」と感じてしまいます。
もし、同じように思う方はお一人様信仰をお勧めしたいです。
今やネット時代です。多くの人の経験や意見を参考にしながら、
自分一人の信仰を確立していくことができる時代になったと思います。
「おひとり様信仰」ができる時代だということです。崇拝する対象が必要なら
各地に神社がありますし、ネットにも信仰の対象はあります(私のHPもその一つです)
今では宗教行為みたいなことはほとんどネットで行うことができるようになりました。
会員登録も不要、時間の制約も一切なし。布教活動も義務も何もなし。
マイペースで自分にあったことだけ信じればよいので無理がありません。
仲間と交流したければネットで連絡すればよし。辞めたければいつでもやめることができる。
また、浮気も何も他人からとがめられることもなし。複数のサイトを掛け持ちしてもOK。
そういう信仰もありだと思っています。
6.スピリチャルについて
神秘系のHPを出しているとスピリチュアル系と思われてしまうことがありますが、
私はスピリチュアルなどのカテゴリは意識してません。
前述したようにお一人様で単に情報を発信しているだけです。他人と競争などしてません。
スピリチュアルの定説と違うとか、今はやりの本を読んでないの?とか馬鹿にされたり
すると不愉快に感じたりします。私はスピリチュアルのトレンディを追いかけてる
わけではないからです。
それでも神秘系に興味を持っていると嫌でもスピリチュアルの情報が目に入ってきます。
最近のスピリチュアルは人生やあの世について安らぎをもたらすような思想であり、
生まれ変わりも現代的な夢のある解釈をしています。次の人生で夢を実現するなど。
そういう意味でスピリチュアルは多くの人に良い影響をもたらしていると感じています。
また、スピリチュアル系でよく売られているヒーリンググッズ、不思議グッズ関係
は高品質なものが次々と出てきています。私は優れた技術を持つ業者を応援しています。
これらは、需要があっての商売ですから、それはそれで良いと思っていますが、
中には会員を依存症にさせて次々高額で商品を売っている業者がいるように見えます。
依存症にさせて金を巻き上げるのはよくないですね。そういう業者に被害を受けた方は
是非ネットで告発して欲しいです。
この業界でも、宗教が「本物」と言いたがるのと同様に自分のグッズが「特別」で
あると言う人がいます。
確かに料理が店によって品質や味が異なるようにグッズやヒーリングも個々に違いが
ありますが、「特別」なんてものがあるようには私には思えません。
これが、グッズやエネルギーを求め続けた私の結論です。「特別なんて存在しない」
品質の良い物を愛好して収集するのは自由ですし、良いことだと思いますが、
「本物、特別だから」という理由で特定の物やヒーリングに依存するのは好ましくないですね。
どうしても、依存してしまう人は私のサイトの無料コンテンツに依存して頂きたいです。
他にも同様の無料サイトが一杯出て欲しいですね。フリーソフト、有料ソフトみたいに
選択肢がいろいろあって欲しいです。
グッズに依存するならまだしもヒーラーみたいな人に依存してしまうケースも
耳にします。ヒーラーや能力者の中には人間性に問題がある人もいます。
私はかつて痛い経験をしたことがあります。
TVに何度も出たことがある有名霊能者が、相談に行ったら全くの偽物だったのです
詳しくは→怖い話(霊能者)
これが世の中の現実だと実感しました。
もちろん、みんなが偽物ばかりでなく、本当に能力がある人も沢山いると思いますが、
例え病気や悩み事を解決してくれたからと言ってその人のいいなりになる必要はありません。
恩を着せる人や団体は何か下心があるのであり、そんな要望に応える必要はありません。
恩返しは社会への善行で返せばいいのです。
更にスピリチュアル本の多くは従来の宗教とは違うと主張していますが、本を
聖書のように絶対の教えとして信じてる人を見たことがあります。その人はその本の
内容に照らし合わせて人を間違っているとか見識が低いとか断罪しているのです。
これでは従来の宗教と何も変わりません。本当に従来と違うなら、他の考え方も
正しく、自分が優れているわけではないと謙虚に考えるべきではないでしょうか?
でも、それではつまらないかもしれませんね。
信じることは自由ですが、それは従来の宗教と言葉の定義が変わっただけにすぎない。
スピリチュアルな教えを伝えている神仏も八百万の神の一人に過ぎず、様々な主張の
一つに過ぎないと「気づき」をして欲しいと思っています。
「従来とは違う」「全ての教えの根元」「次元が異なる」「唯一絶対の真理」だの言葉の定義をいかに飾っても、
私にはどれも「数多ある宗派・流派の一つ」でしかありません。
時代によって流行するファッションの一つみたいなものです。私はそのようにしか考えません。
誰がどう考えようが信じようが自由ですが、他の人を間違ってるとか馬鹿にしたり、傷つけたりはしないで欲しいです。
以前、スピリチュアルの人達の集まりに参加した時、異様な光景を見たことがあります。
ある人が悩みを打ち明けて苦しいと訴えたところ、スピリチュアルのマニアみたいな人が
「自分の間違いに気づきなさい、原因はその間違った考え方にあるのです。
あなたは甘えていて努力していない」
みたいにきつく怒鳴りつけました。
その人の考え方や行動全てがスピリチュアルの原理に照らして間違っていると指摘して
自業自得であるみたいに責めていました。そして今までの幸せに感謝して
自分自身の心の持ち方・生き方を変えない限り悩みは解決しない。みたいな説教をしてました。
私には「お前は馬鹿だ、愚か者だ」と見下してるように聞こえました。
これでは悩んでる人がただ傷つくだけです。こんな説教を聞いて悩み事が解決するでしょうか?
説教する側が気持ちいいだけの、全く役に立たない相談室です。
スピリチュアルがみんなこういうものだとは思いませんが、スピリチュアルのビジネスに
「選民意識をくすぐる、他人を見下す」ことを盛り込んでるものがあるように感じます。
巧妙に「あなた達は一般人と違う、レベルが高い意識と魂を持っているのです」
とくすぐっているように見えます。
前述したように言葉の定義と表現を駆使した「おだて」に見えます。
バーのホステスやホストが用いる接待みたいなものです。
人間誰しも、自分が特別であって欲しいと思ってますし、自分よりも下の人を
見下して気晴らししたいという卑しい気持ちがあるものです。
そういうナルシズムに浸ることも自由ですし、たまにはそれで気分よくなることも
必要かもしれません。
でも、自分の気ばらしの為に誰かを傷つけたり、侮辱することはしないで欲しいです。
私のサイトにも、定期的に
「お前らは、テクばかり実施して自分を変えたり、努力しようとしない。
自分を変えない限り何も変わらない」
などと説教する人が来ます。
しかし、当サイトの読者の皆さんは、テクだけに他力本願で頼っていて何もしてない。
なんてことはないです。ぱっと見、そう見えるかもしれませんが、それは浅はかな判断です。
皆さん、個々に立派な考えを持ち、賢明に生きてます。その上でテクを上手に活用してます。
「あんたは表面的にしか判断できない。
ここの皆さんは、あんたなんかよりも賢明です。
一人でナルシズムのオナニーやってなさい」
と言い返してやりたくなります。
7.これからの信仰について
これからはネット時代です。ネットを上手に使いこなす皆さんは信仰でも同様に
するのが賢いと思います。そういう考え方があってもいいわけです。
誰かや何かの教えを「本物だ」「絶対だ」などと崇拝していいなりになる必要などないと思います。
信仰=服従・帰依 ではないのです。信仰=独りでネット活用 というのもありだと思います。
何を信じるか? 何を信じないかは自由に自分で選んでよいと思います。これも一つの信仰です。
そう考えると私のHPもその信仰の一つの選択肢になりますね。
私のHPの内容を絶対と信じる人もいるかもしれませんが、私は単に情報を発信している
だけですので、ネットの選択肢の一つでよいわけです。一部だけ活用するのもOKなのです。
こんなことを言うと宗教者から「宗教の堕落」「自分勝手信仰」だと批判されるかも
しれません。でも、今あるどの宗教もかつては批判されてきたものです。
もちろん、従来の信仰を否定するつもりはありませんし、価値があると思っています。
追伸ですが、見えない世界の方から「お前のこの論説こそ、人の心を混乱させるではないか?」
「お前こそ、思いあがっていないか」とのお叱りを受けてしまいました(^_^;)
信仰は人の心の中のものです。他人様が大事にしているものをあれこれ言うのはよくないですね。
それは反省しております。
このページはあくまで私、彩竜という変人が思っている「ちょっと変わった観点の意見」
という程度に考えてください。私は人それぞれの信条・信仰は尊重しています。
私は信仰に囚われて苦しむ人に「執着を断つこと」が可能なように、このコラムを書きました。
関連ページ: 宗教の自由について 波動感覚ブームが世界を変える