お釈迦様と癒し

2022年1月10日


〇仏教は単純なものだった。

 このコラムではお釈迦様が開いた仏教と心の安らぎ、癒しについて述べたいと思います。
私はお恥ずかしながら、ずっと仏教をよく理解してませんでした。
仏教というと私は「難しい議論をしている」「机上の空論を議論している」あるいは
「死者のことを扱う宗教」「葬式や法事のための儀礼」みたいなイメージすらもっていました。

若いころ、仏教の理屈を自慢げに語る嫌な人がいて、神道やキリスト教を低級(頭が悪い人の信仰)
みたいに見下してました。それが仏教の理論派タイプのイメージになってしまっていました。

「仏教は現代の科学理論に等しいことをはるか昔から説いていた優れた教えである。
 西洋人は、近代になってやっと仏教が説く縁起の理論に追いついた。(唯物論のこと)
 それまで絶対神なんてものを信じていて頭が悪い」
 
「仏教は他の宗教とは異なる深遠なる思想である。
 神や霊や死後の世界などオカルト宗教と一緒にされては困る」

みたいに高尚な学問だと言ったりしていました。
「難解な理屈を理解して悟ったと思ってる人達のカルチャーだ」と私は思いました。

一方で、神秘的哲学を研究してた頃、神秘学系の人達は仏教を見下していたようです。
昔「ソフィーの世界」という哲学の本がブームになったことがあります。
そんな頃の神秘学ファンは東洋文化そのものを見下す傾向がありました。
次のようなことを言われたことがあるんです。

「日本人は哲学が理解できない。日本の仏教は全く哲学性がない。
 お釈迦様は仏像を作ったり、お経やらを唱えたりすることなど
 説いてもいないのに、そんな何の意味もないことをしている。
 本当に日本人は哲学の「て」もない」

「最近、釈迦の教えが研究で解明されてきており、日本の仏教が間違っていることが
 明確になってきている」

つまり仏教は、哲学性や理論性のない偶像崇拝の迷信である。
お釈迦様の教えにさえも反して破綻しているというわけです。

どっちもどっちです。仏教の方が理論が優れていると言ってる方も
哲学=西洋哲学のみ と思い込んでいる方もプロ野球の好きなチームが
勝った負けたと騒いでるレベルであり、とても哲学的とは言えません。
私にとってはそんな議論やら優劣には興味がないわけで
仏教の呪術の伝統テクだけにしか興味がありませんでした。

でも、最近、TV番組で僧侶であり大学教授である先生が仏教というものをわかりやすく解説して
いるのを見て衝撃を受けました。その内容はびっくりというより「意外」なものでした。
内容を要約します。

・お釈迦様は「人間とは何故苦しむのか? どうしたら苦しみから逃れられるのか?」
 を探求した人である。
・そして人間の苦しみは心が作りだしているものであることを悟ったのである。
・心の苦しみから解放されるために瞑想が効果あることを発見した。
 瞑想とは座禅のような行のことだけではない。お経を唱えることも、一つのことや
 思考に意識を集中させることも瞑想に含まれる。人間の心は何かに集中することで
 苦しみを忘れたり、気持ちを切り替えることができることを発見したのである。
 仏教の行の全ては苦しみから逃れるための手段だったのである。
・仏教はその後、インド、中国、日本に伝わり、各地の文化を取り入れながら変化して
 きたが、そのベースは苦しみから逃れる方法の探求である。
・また、心の苦しみから逃れるための考え方「縁起や空など」の思想が発展した。

 おそらく現代の皆さんは「そんなこと、現代人なら誰でも想像できることだよ」とか
「仏教が心理学テクだったなんて安っぽくとらえるなよ」「仏教の見方は他にもいろいろあるよ」
と言うでしょう。その通りだと思います。様々なとらえ方があると思います。
それだけ広く深い文化であると考えてますし、スピリチュアル的な探求もされていると思います。
ただ、私にとっては衝撃的だったのです。というのは上記の捉え方をすると

・お釈迦様は特別な人ではなく、単に苦しみのメカニズムに気づいただけである。
・仏教は真理を追究する哲学というより、心の安らぎと癒しのテクを追及した知恵だった

という捉え方ができるからです。私はそれが仏教の本質だと思ったのです。
これでまた、仏教を崇拝する人からは

「お釈迦様や仏教を安物のように侮辱するな、もっと深遠で崇高なものだ」

とお叱りを受けそうですが、私は侮辱しているわけではないんです。
逆に仏教が、人々を苦しみから救うための教えであったのなら、
仏教に対する親しみがいままで以上に沸いてきます。
お釈迦様がそれを追及した人だったのなら、ファンになりそうです(笑)

私には、お釈迦様が特別な世界から来た魂(エルカンターレ?)だとか、
悟りを開いて解脱してブッダになった? などどうでもいいことなんです。

伝説によると、お釈迦様は偉大なる王様になる身分と器をもった王子様だった。
しかし、出家してしまったということになってますがそんな話もどうでもいいんです。
私は後から加えられた話かもしれないと思ってます。
そんなことは重要ではなく、人々の苦しみをどうやったら救うことができるか?
を真剣に考えて探求した人だったのか?が重要なのです。
それが本当だったなら、元々乞食だった人であっても心から尊敬します。

仏教が変化していくうちに、仏像を作ったり、お経を唱えたり、念仏や題目を唱える
ようになったのも、お釈迦様の教えから離れてしまったわけではなく、お釈迦様が
探求した「苦しみから逃れるための方法」を探求した結果なのだと私は解釈しています。
様々に変化、分派したのは方法論の違いです。決して間違った方向や曲解ではないのです。

仏教はお釈迦様を絶対の存在のように崇めて、その言葉を一字一句信仰する宗教ではありません。
お釈迦様は人間に過ぎないのです。お釈迦様の考えと違っていてもお釈迦様の想いには反しません。
お釈迦様が求めた「心の苦しみから逃れるための方法」を探求するのが仏教だからです。
私はそう考えています。

〇人間は心の安らぎと癒しを求め続ける生き物である。

 ここからは仏教についてではなく、私の考えを述べます。
仏教では「人は何故苦しむのか?」と追及していました。
結論は「苦しみは心が作りだしているものである」ということです。

現代人にとっては当たり前のことですが、加えて「人間は癒しを求める生き物である」とも
言えます。人間はまず衣食住の満足や安全や健康や将来の安心などを求めます。
苦しみから逃れようとします。

 推理ドラマでは、自分の過去や弱みが明らかになる不安から人を殺してしまう犯罪者が登場します。
松本清張ドラマでは過去の自分を知る人がそれを口にしてしまうのでは?との不安から口封じをしてしまう
犯罪者が度々登場します。その不安とは心の中で作り出した妄想的苦しみにすぎないのですが、
その苦しみから逃れるために、一か八かの殺人を犯してしまうわけです。人間の愚かさの象徴です。
こころの苦しみから逃れるために人は何でもしてしまうのです。

衣食住が確保され安心を手にいれたら、続いて人が求めるものは「癒し」だと思います。
癒しというとアイドルやゲーム、アニメなどを楽しむことを連想すると思いますが、それだけではないです。
生き甲斐、成功、優越感、満足感、そういうものが全て癒しと言えます。現代の科学的に言うならば、
脳内アドレナリンの分泌という感じでしょうか? それを求めるのです。
何を「癒し」とするかは人それぞれです。

ギャンブル、恋愛、ゲーム、コレクション、旅行、買い物、仕事での成功や出世など人それぞれでしょう。
中には、フェチなど他人には不可解なものや誰かを傷つけることが癒しだという人もいるでしょう。
千差万別と言えます。

快楽や刺激を癒しとする人は、更に多くの癒しを求めてしまいます。
私が会社員だったころ、ある先輩は私よりも給料をもらっていて独身で賃貸族でした。
なのに「お金がない」と不満を言ってました。「お前、俺よりもらってるだろ」と
いつも言うので明細を見せ合ったところ、僅差でその人の方が多かったです。
もし、私の方が多かったらいじめられていたでしょう(-_-;)
独身貴族のくせにいつもお金がないと不満を言ってるのです。
「一体何につかってるの?」と不思議でした。どうやら
ギャンブルやコンサートなどの快楽的な趣味にはまっていたようです。
そういう快楽の追及はキリがありません。
たとえ、給料が2倍、3倍になったとしても「お金がない」と不満を言い続けるでしょう。

時には癒し(ロマン?)に命を掛ける人もいます。敢えて危険な冒険や挑戦をする人もいます。
また、権力闘争、暴力団や暴走族の勢力争いなどもそうです。
これらは人の上に立ちたい、尊敬されたい、目立ちたい という欲求から来ていますが、
それも達成した時の癒しを求めて命を掛けているのだと考えられます。

 覇権争いで戦争が起きることもあります。
天下を取って国のトップに立つという「癒し」を求めて強者どもが戦争を起こした時代もありました。
映画では一人の女性を奪うために男たちが戦争をするという歴史物語もあります。
それが史実かどうかは不明ですが、あり得ることです。権力者が一人の女性の「癒し」を
手に入れるために国を挙げて戦争を起こすなど愚かの極みですがドラマとしてはロマンチックです。

 また、愉快犯というのがあります。または拡大自殺というのもありますね。
事件・事故を起こしたり、他人を巻き沿いにして世間を騒がせ、快感を感じる犯罪です。
それも癒しを求める行為と言えます。癒しのためには死んでもいいと考える人もいるようです。
決してやってはいけない卑劣な犯罪ですが、残念ながら跡を絶ちません。

人間とは心の安らぎと癒しを得るために生きている弱き生き物であると言えます。
ここで私が最も人間とは哀れな生き物であると感じた実例を紹介します。

かつてTVで超常現象がよく扱われていた頃のことです。ある外国のおばちゃんが
「宇宙人の子供を妊娠した」と主張しているのを放送してました。
宇宙人に襲われて、妊娠してしまい、出産までしたというのです。
しかし、生まれた赤ん坊は宇宙人が連れ去ってしまったというのです。
肝腎の証拠がないのです。
宇宙人に襲われた時の恐怖を思い出して泣き出したりして迫真の演技はしていましたが、
どうみても茶番です。

私は「何でこの人はこんな恥さらしの茶番劇をしてるのだろうか?」と不思議に思いました。
その時、おばちゃんの自宅が紹介されたのですが、そこである物に注目しました。
それは彼女の若いころの写真です。それが飾ってあったのです。それを見て理由がピンときました。
おばちゃん自身の若い頃の姿だとはっきりわかる写真でした。かなりの美人でした。
歌手のような華やかな写真だったです。それでわかったのです。

「きっとこの人は若いころ、美人だったので注目されたのだろう。癒しを満喫したに違いない。
 しかし、年を取るにつれて人から注目されなくなった。でも注目される癒しが忘れられない。
 そこで、宇宙人の子供を妊娠したという嘘をついて注目を集めようとしているのだ」

哀れと言うよりほかありません。

〇考え方を変えれば苦しみから解放される

 仏教の「苦しみから逃れる方法」として瞑想、読経、念仏などがあると書きましたが
仏教のもう一つの知恵は、考え方を変えることで苦しみから逃れる方法です。
有名な所では龍樹という人が唱えたとされる「空」の思想ですね。絶対的なものはなく
全ては関係性の中で存在する相対的なものにすぎないということです。
もっとわかりやすく言うと、物事は常に流動的に変化している。どんなに美しい物や
美しい人も時が経てば劣化してしまうし、いずれは消滅してしまう。また時代も変化する
どんな価値も時代によって変化してしまうということです。
人間はそういう相対的なものをあたかも特別で永遠のもののように色眼鏡を見てしまうわけです。

例えば絶世の美人を見たら人は「あの人は我々とは違う存在である。天使だ。彼女はおならも
しないし、うんこもしないはずだ」などと思ってしまいがちですが、実際は他の人と同じですし、
時が経てば老化して醜くなってしまいます。美人とそうでない人は生物的には何も違いがない
同じ人間なのに、まるで違う生物・人種のように考えてしまうのです。それが空なんです。

またフェラーリは絶対的な価値のある車だと思って全財産をはたいて買っても、
年月が経てば劣化しますし、価値も下がります。ガソリン車は将来運転できなくなるかもしれません。
また、100均で買ったカップは100円以下の価値しかありませんが、大谷選手が使ったら、それだけで
高い値段がつきます。価値などそんなものなのです。

幻想でしかない価値や思い込みにとらわれ、欲しいものが高くて買えない、好きな人に振り向いてもらえない、
高い学校に入れない、長身じゃないので恥ずかしい、自分は才能のないクズだ、恵まれた人間が妬ましい、
お金持ちが憎い・放火したい、いい親の子供に生まれたかった、俺が見下してた奴が成功した、許せない、
自分の未来は絶望にきまっている、などと苦しみを人間は心の中に作り出しているのです。
ほとんどは他人には「そりゃ思い込み過ぎだよ」と感じるような苦しみです。いわゆる煩悩です。

そこで全ては「空」であると考えることで執着を和らげ、苦しみから逃れようという知恵なのです。
「素晴らしい」「永遠に続く」「こうでなければいけない」などの思い込みを捨てることが
できるようにする考え方です。科学が無かった時代に冷静に現実的に物事を判断することの
重要性を説いていたわけです。

また禅宗では禅問答という「とんちゲーム」の行がありました。一休さんのとんち問答の
ような感じで遊んでるように見えますが、これも心の苦しみから逃れる修行だと思います。
日々、屁理屈・詭弁とも言えるような思考のトレーニングをすることで、苦しい状況に
陥った時に「考え方・見方を変えてみよう」と発想の転換ができるわけです。
悩みや苦しみも「考え方を変えれば悩むことではない」と悩みをそらすことができるわけです。
肉体や容姿の短所を逆に利用してタレントなる人もいますよね。短所が長所になったりするのです。

私の育った場所はファッションがダサいことで有名でした。近所の友達が、都心に通学していて
学校と地元で人々の服装が全然違う(地元はダサい、自分は田舎者だった)と悩み苦しんでました。
でも私はこう言ってやりました。

「ここは洋服代が安く済むということだ。いい所じゃないか?
 ダサい、田舎者だと馬鹿にする脳タリンなど、付き合わなければいいじゃん。
 人間性で見てくれるいい人を友達にできるから好都合じゃん」

「ものは考えよう」なのです。(注意:現在のさいたま市はダサくはありません(笑))

 もう一つ、考え方を変えることで苦しみから解放される実例が仏教以外にもあることを発見しました。
それはイスラム教です。我々日本人は「なんであんな宗教に没頭するんだろうか?」と思ってしまいますが
その理由は「心の安らぎ」にあるようなのです。
というのは、イスラム教では何でも「全ては神の思し召し」という考え方があり、最近は変わってきてる
ようですが、ひと昔前まではそれが徹底されていたようなのです。たとえば結婚式で永遠の愛の誓いなど
しないそうです。離婚せずに最後まで夫婦でいられるかどうかは神の思し召し次第なので約束はしないとのことです。
ひと昔まえのことですが、日本のスポーツコーチがイスラムの国のチームの訓練をしたとき、選手は失敗しても
「神の思し召し」と言って反省しないのでびっくりしたそうです。(今は違うと思いますが)

その考えからすれば、災難に遭っても、犯罪に遭っても、損をしても「神の思し召しだからしかたない」と
諦めがつき、過去をくよくよしなくてよいわけです。失敗しても自分の責任ではないですから楽なんです。
また、イスラムのルールを守っていれば誰でも天国に行くことができるという教えでもありますので、
未来の不安もなく、心は楽なわけです。
これも考え方によって苦しみから逃れる知恵と言えるでしょう。

心の安らぎや癒しを得ることが宗教の目的だと考えるようになれば、教義や思想の違いなど
どうでもよくなりますよね? 全ての宗教が目的は同じものだったと理解し合えますよね?

〇安らぎや癒しをもたらすはずの宗教が苦しみの原因となる

 仏教も含めて宗教とは心の安らぎや心の癒しを得るためにあると私は考えています。
瞑想や読経以外にも、神仏に悩みの解決や願望実現を祈ったり、祈祷などを行うことで人は
こころが安らぎます。おまじないや呪術もそういう役割があります。
(ここでおまじないや呪術は単なる心理的効果しかないと言ってるわけではないです)

 ところが、本来こころの安らぎをもたらすはずの宗教や教えが逆に苦しみの原因となって
しまうことがあるのです。
例えば宗教やお墓を巡るトラブルは現代では絶えずあります。

よくあるのが、結婚した夫婦が異なる宗教を信じていた場合のトラブルです。家族や
親戚まで巻き込んでトラブルとなる場合があります。特に自分の宗教以外は間違っている
と主張していたり、家族も勧誘しなければならないと主張している宗教の場合には深刻です。
それと2世の問題も深刻です。
2世は自分の意志と関係なく入信を強制されることが多く、それによって苦しむ場合があります。

 私も若いころ新興宗教をやってました。
圧倒的に女性が多く、独身の女性は苦労してました。
よくあるケースが、恋人ができたが、宗教のことは認めてくれず
遂には彼氏からこう宣言されてしまうのです。

「俺を取るか?宗教を取るか?どっちかに決めろ!」

宗教団体は「宗教を取りなさい。説得しなさい」と強く言うので女性は悩み苦しみます。
宗教が原因でこんな辛い苦しみをすることになってしまうわけです。

 また、ある宗教では死後の幸福は供養次第と主張していたりします。
これでは 地獄の沙汰も金次第 ということになりますよね?
子供が居ない人は供養してくれる子孫がいないのであの世で苦しむことになるのか?
と不安になってしまいますよね。
供養するお金もない人は先祖や家族もろとも死後、不幸になってしまうことになります。

またある教団は、親鸞の教えをマニュアル化して信者獲得の競争をさせています。
信者達は勧誘のノルマと競争に苦しめられるわけです。
親鸞は人々の苦しみを救うために徹底的に悩んだ人です。そんな親鸞が
効率化された営業活動で信者を獲得した成果を「よくやった」と誉めるでしょうか?

 人間とは愚かなものです。
人を救うための教えさえもビジネスとして利用しようとするわけです。
それを行っている人達もお金や権力を得て「癒し」を得ようとしてるわけです。
前述した仏教を見下した人、哲学者をきどる人、仏教で悟ったと勘違いしている人なども
インテリを気取り、優越感に浸る癒しを求めていたのだと今では思っています。
人々に心の安らぎや癒しをもたらすために作られた宗教や教えが、ビジネス競争のように
勝ち組や金持ちを優遇したり、高次元だ低次元だとステータス争いの道具に使われて、
多くの人の癒しどころか苦しみの原因になってしまっているのは悲しい現実です。

 本当の宗教や教えとは、理論がどれだけ優れているか? どれが本物? 本流か?
ではなく、心の安らぎや癒しを得ることができるか?
またはそれを目的としているか? で評価すべきではないでしょうか?

 私はそれを考慮して考え方を変えたことがあります。
それは「輪廻転生を否定」です。かつては輪廻転生を盛んに主張していたんです。
否定するようになって、初期の頃の主張とぶれてしまったのか?と思った人もいると思います。
現在では輪廻転生を否定、または違う解釈にしています。神道の神様がそう伝えて
くれたのがきっかけですが、それを明文化したのには理由があります。
 皆さんの意見として「この世にもう生まれたくない」と考える人が結構いるからなんです。
スピリチュアルでは過去の人生、そして次の人生があるということをロマンチックに主張していたりしますが、
「次の人生がある。わくわくする」と考える人だけではないのです。

「再度人生をやらなければならないの?」
「また苦しみを経験しなければならないの?」

と考える人も多くいるのです。

 この場合には輪廻転生という教えが心の安らぎをもたらす教えではなく、
苦しみの原因になってしまっているのです。
 だったら、「信じなくてもいいんじゃないの?」ということで私は輪廻転生を否定したのです。
もちろん、信じたい人の信仰心は邪魔しません。
輪廻転生があることで心の安らぎあるいは癒しを感じるのであれば、信じることを奨励します。

これは私の意見にすぎないのですが、苦しみをもたらす教えなど全て人間が作り出した妄想だと思います。
もし宗教や教えが苦しみをもたらしているなら、すぐにそこから脱出して欲しいです。

〇現代でも人が求めるのは心の安らぎと癒しである。

 よく考えてみれば、心の安らぎを求め、癒しを求める人の姿は昔も今も変わりません。
お酒もタバコもそうです。
私はタバコ吸っていたのでわかります。不安やストレスで苦しい時にタバコを吸うと、
一瞬気持ちが安らかになるのです。そこで気持ちや考えを転換することができたりするのです。
お酒もそうです。酔いが回ってきたときには嫌なことを忘れる事ができたりするのです。
 ゲームもギャンブルもスポーツも、そして好きなアイドルを映像で見たり、没頭している時は
嫌な事、辛い事、不安なことを忘れることができます。

 更には、ゲームやギャンブルで勝利した時には「快感」を感じて幸福感に浸れます。
目標を達成したとき、誰かに感謝されたとき、名誉を得た時などもそうです。
この一瞬の癒しが幸福であるともいえるのです。

 この「癒し」を絶えず得ることができれば幸せな人生とも言えるのです。
ただし癒しの感じ方は人それぞれですし、馴れると感じなくなります。
そうなるとさらに強い癒しを求めようとするのです。
人によっては癒しを手に入れることがうまくできない人もいます。
そういう人は不満を募らせてしまいます。
時に、不満の爆発によって反社会的な行為をしてしまうこともあります。

誰もが簡単に癒しを手に入れる方法は、弱い人をいじめて快感を得ることや
人の嫌がることや犯罪を起こして注目を集めることです。
もっと簡単に快感を得る方法として、薬物を使う方法もあります。

人間とは昔から、心の安らぎを求めて戦い、癒しを手にいれようと競争をしてきたのです。
癒しを得られない人達は不平不満を言い続け、自分は不幸だと嘆きます。
中には犯罪行為をしてしまう人がいるのです。

 これが人間という生き物だと言えます。ではなぜ、人間は癒しを求めるのでしょうか?
なぜ、苦しむように出来ているのでしょうか?
 科学的に言うならば、肉体がそのように出来ているからです。常に敵から身を守るために、
過去の恐怖が頭から離れないように、そして絶えず未来に不安を感じるように出来ているんです。
そして、飲食や生殖、闘争など生存のために必要な習性に癒しを感じるようにできているからです。
脳内ホルモンの分泌によって苦しみや癒しが作り出されて、それに支配されていると言えるでしょう。

 でも、それだけでしょうか? そんな生理的本能だけで説明できることなのでしょうか?

〇人間とは一体何なのか?

 前述の書き込みでは人間はまるで本能に支配されて生きている動物のように書いてしまいましたが
人間とはそんな動物にすぎないのでしょうか?

 もっとも癒しを満喫している人は快楽に没頭する人ではなく、何か大きな目標を達成した人、
世の中に貢献した人であるように見えます。私にはそう見えます。人間の最も大きな癒しは
生理的快楽ではないのです。魂が感じる癒しではないでしょうか?そう思えますよね?

 神秘系の私としては、人間は確かに動物の一種ではあるが、同時に魂をもった霊的存在であると
信じています。ここで机上の空論みたいな議論をするつもりはありません。
 霊や波動、神仏を感じ取ってきた私の経験的な結論です。人間は霊的な存在でもあると。

 ここで私が思った人間の本質について述べます。あくまで私の持論です。

人間の本質は魂です。肉体が全てではありません。そして魂はどこから来たのか? が重要です。
あの世のカーストのどこかだとか、次元やレベルのどこかから来たと言う人がいるかもしれません。
グループソールやソールメイトなどと言う人もいるかもしれません。

でも、もっと前の根源を考えてみて欲しいのです。
 我々は皆、安らぎだけ、癒しだけだった世界から来たのだと思います。どこかの宗教が説く楽園や
天国ではなく、もっと根源的な「癒し」「快感」だけの状態に居たのだと思うのです。
 ずっと癒し、快感だけを感じる、それ以外に何もない世界です。何も苦しみもない世界です。
これを「涅槃」と言った人がいたようです。

無上の癒しの中に居るにも関わらず、我々は「もっと癒しを味わいたい」と思ったのだと推測しています。
あるいはそう思った魂が居たのだと思います。「どうやったらもっと癒しを高めることができるのか?」
と考えたのだと思います。
結論は「癒しを抑制された世界、苦しみを感じる世界に行って、また戻ってくることだ」
と気づいたのだと思います。

 それがこの世に生まれた理由なのだと私は思っています。

我々は癒しの世界から来た魂なので、どうしても癒しが忘れられなくて癒しを求めてしまうのです。
この癒しを制限された苦しい世界で人生を生きて、再び元に居た至福の世界に戻った時、
元居た時よりも大きな癒しを感じることができるわけです。
そのためにこの世が作られたのだと思います。癒しというと卑近な感じがしますね。
生きる喜び、創造や努力の喜びを経験するためにこの世は作られたのだと思います。
 それが世界と我々人間が存在する理由だと思います。

 元々この宇宙には「癒し」しかなかったというわけです。
癒しの世界から来て、最後は癒しの世界に戻っていくわけです。
一時のこの世の人生はあえて癒しが制限された世界ということになります。
そんな世界に自分の意志で訪れた我々は、わざわざ苦しい冬山の登山を自らの意志で挑戦するような
タイプの魂だったと考えています。
戻った時には、苦しみを経験した分、癒しは大きく感じられるに違いありません。

そう考えれば、この世の人生で他人を羨んだり、他人と比較して自分を惨めに考えたり、
将来や未来のことを漠然と不安に思ったり、死後の不安に苦しむ必要なんてありませんよね?

もともとこの宇宙には「癒し」しかなかった。だから最後は癒しに戻るだけ。

〇神秘のお部屋の心の癒し

 このコラムで何を言いたかったのか?と言うと、人間にとって一番大切なことは
心の安らぎと癒しだということです。苦しみも安らぎも癒しも心の中で発生するものです。
心の中で作られるものなので、安らぎや癒しは必ずしも、お金持ちやエリート、競争や恋愛を
勝ち取った勝者だけが得られるわけではないのです。

もろもろのカーストのランクに応じて得られるものでもないのです。
生まれつきの資質や血筋によって決まるものでもないのです。ましてや魂や波動の
次元の高低などという意味不明なカーストによるものでもないのです。
誰もが心のテクを実践することで安らぎや癒しを手に入れることができるのです。
それが仏教の教えの本質だと私は思っています。

 神秘のお部屋では心の安らぎをもたらすテクニックをいろいろと用意しています。
心の世界は心のテクによってコントロールできると信じています。
我々は何故、人間に生まれる決断をしたのか? それは個々の人によって異なるかもしれません。
でも、誰も苦しむためだけに生まれた訳はないと思います。
だれしも、苦しみたくはありません。誰しも癒しを得たいと思ってます。
ところが現世は厳しいものです。多くの人が苦しみに負けてしまっているのが現状です。
宗教や文化など心を癒す教えや言葉などがたくさんありますが、頭で理解しても心が
納得しないことも多いです。
そんな時に、波動やマジナイを使うことで癒されれば幸いです。

 科学の発展によって昔に比べて、人々の苦しみは和らげられてきています。
また人々の癒しを得る手段は多様かつ豊富になっています。
将来は人間の脳内ホルモンのコントロールによって極上の癒しを誰もが得られる技術が
開発されるかもしれません。世の中はそういう面では進歩し続けています。

 神秘のお部屋では波動技術を使って心の安らぎを得るテクを提唱しています。
パワー体験ページや呪文など、様々なテクがありますので是非、活用ください。
 小手先のテクのように思えるかもしれませんが、霊体や魂に対する処方箋だと
自負しています。波動が科学で解明される時代の先駆けだと考えています。

我々は苦しむために存在しているのではありません。
最後は誰もが、癒しの世界に戻る時が来ると信じています。
そう信じることが一番、心の安らぎになると思います。

 実は、誰しもが癒しの世界から来たと考える根拠があるんです。
昔、瞑想をしていた時、何度か至福というか癒しの境地を体験したんです。
自分が無くなっているが、それを認識している自分がいる。そして言葉で表現できない程の
気持ち良さなんです。エクスタシーよりも快感と言ったらいいでしょう。
ずっとこのままでいたいと思う境地なんです。
この時、「自分は元々、ここに居た。ここから来たのだ」と悟ったんです。
そこから来たのであれば、最後はそこに戻るはずであると確信しました。

尚、本コラムは彩竜の考えを述べただけです。信じる・信じない・受け入れる・受け入れないは
全て読者の自由です。

参考:雑誌過去ログに ○至福の境地にいたる「悟り脳」の作り方 の記事があります。


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